家畜繁殖研究会誕生の経緯

深田 治夫 



執筆のいきさつ

 日本繁殖生物学会が今年第100回大会を催すにあたり、学会の前身である「家畜繁殖研究会」誕生の経緯などについて書いてもらいたいとの話が学会誌の編集委員長の眞鍋昇先生からありました。しかし、会の設立は60年も前のことでもあり、資料の持ち合わせもなく、問合せる先輩、同僚も全て亡くなっているので直ぐに、書きますという返事はできませんでした。早速、日本繁殖生物学会のことを知ろうと思い学会のホームページを開き「会の成り立ち」を読みましたら、「……現学会の前身である家畜繁殖研究会が設立されたのが、世界的に見ても繁殖あるいは生殖の学問分野で、英国のSociety for the Study of Fertility、米国のSociety for the Study of Reproductionより古く創設され、この分野の先導的な役割を果たした……」と書かれているのを見て、感動と同時に同学の学会としては世界で一番古いことを知り驚いた次第です。そこで、研究会がどのような環境の中で創られたものかを中心に書き残すことも意義があると思い、昭和30年3月発行の「家畜繁殖研究会誌」創刊第一号の斉藤弘義理事長の「本会の歩み」を読みましたが、この点には触れられていませんでしたので書くことにした次第です。


家畜繁殖研究会発足の原点

 家畜繁殖研究会発足の原点は、端的に申せば、農林省畜産局が主要牛生産地を対象に実施していた「牛繁殖障害除去施設」が、終戦に伴い事業が打ち切られたことと、この事業の最前線を担っていた農業会が廃止されると云う課程で誕生したものです。

 この牛繁殖障害除去施設は、農林省畜産局衛生課長斉藤弘義氏(家畜繁殖研究会第3代会長)指導のもとに昭和14年から始められた事業で、当時中国地方を中心に多発していた牛の原因不明の流産、不妊の原因がトリコモナス感染牛に多くみられたので、トリコモナス防除対策として実施されたのが始まりでした。このトリコモナス研究のためには、昭和11年に兵庫県朝来郡和田山町に「獣疫調査所」(現「動物衛生研究所」の前身名)中国支所(昭和47年廃場)が設置されていました。そこで、研究された検査、治療法を用いて感染種牝牛、牝牛の摘発と治療を主体として始められた事業でした。当時千葉の「農林省畜産試験場」、島根県安濃郡大田町(現太田市川合町)の「畜産試験場中国支場」などで研究がすすめられていた人工授精を感染防止と受胎率向上対策の手段として試験的応用されていました。国は、事業実施の道府県に指導職員を、実際に牛に接して実務を担当する技術員を農業団体(昭和18年農業会)に配置しその人件費と器具機会消耗品費の1/2を国庫補助し、残り1/2を道府県が負担する仕組で行なわれました。事業実施によりトリコモナスの感染牛は減ったが、膣、子宮、卵巣の疾患によると思われる不受胎が浮き彫りとなり事業関係者からこれが対策を強く要望され、昭和17年頃から獣疫調査所中国支所も研究に着手したが、戦争下であり物資、研究費の不足、わが国での牛のこの種疫病に対する研究の不足、文献や情報の入手困難などの状況下では研究を進める体制を整えことが大変でした。せいぜい治験例の収集と追試、技術の普及程度であったと当時を振り返り同僚であった常包正氏(後日本大学教授)から聴きました。

 ここで少し馬の繁殖行政について述べておきます。それは家畜繁殖研究会誕生の初動の原動力となったからです。当時の馬の生産はというと軍馬の生産が目的と称しても過言ではなく、軍の使用目的に適した馬を軍の必要とする頭数を整えることが使命とされました。そのため、農林省の外局として「馬政局」が置かれており、この局は軍を後ろ盾としていたので予算も豊富で業務の根幹となる生産部門には多大な国費が注がれていました。また生産を支える繁殖に関する研究にも力を注いでいました。昭和4年には馬政局職員であった佐藤繁雄氏が東京帝国大学農学部講師となり、馬の繁殖生理、臨床繁殖、人工授精などの研究にあたりました。昭和12年には、それまでの研究成果を体系化して、馬生産率増進施設として全国規模で展開されました。この施設を活用して各種の繁殖研究が行なわれていました。昭和15年には、栃木県那須郡西那須町に「馬事研究所」が創設され、馬の繁殖に関わる専門部が設けられるなど馬は優遇された姿で研究が進められ、馬の繁殖に関する研究は、牛などに比較して進んでいました。しかし、昭和20年の終戦に伴って戦争協力体制の清算と国の財政再建をGHQより求められ、法律で支出が義務付けられているもの以外は原則として国の補助は認めないとの方針が打ち出されたため、馬政局は廃止されて「畜産局馬産課」となりました。昭和22年には、馬産課が解体してしまい、馬生産率増進施設は「衛生課」に移り牛繁殖障害除去施設と合体し家畜生産向上班となり、補助金が打ち切られ、事業の最先端組織であった馬匹組合、農業会も昭和23年8月を目途に法定解散する方針が示されていました。家畜生産率向上班として、今まで培って来た繁殖技術を今後どの様な形でわが国の農業の中で活用させるか苦慮していました。

 このように混沌としていた戦後農業の中で、今後畜産はどうあるべきかを討議するための畜産審議会が農林省に昭和22年3月設置されました。そこでは、戦後の食糧増産は牛を中心にした有畜の農業を推進することが急務であると答申されました。この答申を受け畜産局内で答申に応える対策が協議されました。衛生課としては家畜生産率向上班担当の星修三氏が中心となって討議に参加し、牛繁殖障害除去施設での人工授精の実績を示し、答申に応えるには人工授精の広範囲の実施が最良の方策である事を強調しました。しかし種雄牛の補充を中心に考えている部署では、精液の保存が未だ短いと云う理由で人工授精の広範囲の展開には反対でありました。

 このような時代背景のなかで、今まで馬を主な対象として研究されていた方々も牛への関心が高まってまいりました。昭和22年、家畜繁殖研究会の初代会長であった島村虎猪氏らと東京大学農学部家畜生理学教室の星冬四郎氏が開発した妊馬尿から抽出したいわゆる「下垂体前葉性ホルモン(Puberogen)」が前述の馬生産率増進施設等での卵巣機能減退馬に応用して有効でありましたが、当時は未だ牛への応用試験がなされていませんでした。馬ではこの種の疾患の治療に発情ホルモン剤が多用されていたのですが、この種のホルモン剤が果たして牛の卵巣機能を動かすことができるのか否かを調べたいと彼らから衛生課に相談がありました。衛生課としてもこの試験に全面的に協力する事になり、研究実施地の選定、協力体勢の確立と試験への参加を表明しました。試験地は兵庫県、埼玉県、東京都が選定され、都県を通じて地元の農業会に試験実施地と試験協力を要請しました。衛生課は、東京都での試験実施地の三宅島で乳牛についての試験を担当しましたが、これには星修三氏があたりました。彼は、食糧事情困難の中で1ヶ月近く滞留してPuberogenや発情ホルモンの投与による卵巣の動きの観察と発情発現牛への種付実施などを行い、Puberogenの有効性と発情ホルモンの無効性を確認しました。兵庫県では、但馬牛の生産地域の城崎地区が試験実施地に選ばれました。試験は、家畜衛生試験場中国支場が担当しました。この試験によってPuberogenの有効性が実証されましたが、この成績は旧来の療法に比して数段優れたものでした。この試験を担当した県農業会は、但馬牛振興のために、ぜひこのような試験研究を今後とも進めたいので、農業会は近く解散するが試験を継続するための資金として15万円(東京都の消費者物価指数に基づいて換算すると平成18年の243万円に相当します:日銀鹿児島支店調)を寄付したいと県畜産課を通じて衛生課でGHQとの渉外事務を担当されていた斉藤弘義氏に話がありました。この寄付金の使途について生産率向上班の星修三氏らと協議し、前述の畜産審議会の答申に衛生課として応えるには人工授精の広範囲な実施と繁殖障害除去技術の応用を進めることであるとし、そのためにはより研究を促進する必要があるので研究者相互の連絡の場を創ろう、そのためにこの寄付金を受け入れようということになりました。彼らは、このことを東京大学の星冬四郎氏、農林省畜産試験場の吉田信行氏らに打ち明け、賛同を得たので、昭和22年12月24日に衛生課長名で家畜繁殖に関係があると思われる機関と主だった研究者に次のような趣意書が送られることとなりました。

「家畜繁殖研究会設立の呼びかけ」

 家畜の急速なる増殖は、わが国今後の再建上きわめて緊要なる事項にして、過般畜産審議会において家畜増殖の目標およびその実施計画などについて協議せられましたが、これが目的達成には家畜技術の浸透および繁殖技術の高度応用によって家畜の繁殖率の向上することがもっとも実行容易にして効果あるものと思料せうる次第です。従って、多年家畜の繁殖に関するご研究中の各位に対しては種々ご教示を賜りたく又今後のご研究に対して期待するところが極めて大なるものがあります。しかして更に家畜繁殖に関する学理および技術の進歩並びにその普及を回るため各研究者相互の連絡を目的として「打ち合わせ会」を計画いたしましたのでご繁忙中のこととは存じますが何卒御出席の上家畜繁殖に関する研究業績および計画などについての御高説、御教示をうけ賜りたく願いあげます。

 翌昭和23年1月15日、千葉の農林省畜産試験場の会議室に趣意書の呼びかけに応じて20名程の方々が参集され、次の様なことが申し合わされました。

1. 本打ち合わせ会は、今後「家畜繁殖研究会」の名のもとに永続される。
2. 本会は家畜繁殖の実際面からの要求に応じた問題を中心として相互連絡のうえ研究を推進、これによって得た成果を迅速に応用面反映する。
3. 現在家畜の繁殖に関する行政および研究に従事するものによって組織する。
4. 事業内容
イ. 一定研究題目の綜合研究
ロ. 家畜繁殖に関する研究の相互連絡会議の開催
ハ. 参考文献の蒐集および交換
ニ. 技術の浸透

 そして、当面の研究項目として、(1)人工排卵、(2)人工授精、(3)卵巣嚢腫、(4)子宮内膜炎とし、これらの研究に対しては、研究会からも出来るだけの援助をおこなうことが話し合われました。そして昭和23年1月22日には「家畜繁殖研究会」の結成を関係箇所に通報しました。この時点での会員数は33名でした。


家畜繁殖研究会の設立

 家畜繁殖研究会の正式な設立総会は、会員が出来るだけ集まり易い畜産学会・獣医学会の終了翌日の昭和23年4月20日に東京大学農学部教官会議室で上記両学会で会員やその関係者がそれぞれの学会で発表した事柄を中心とした第一回の研究会を兼ねて行われ、次の事が承認されました。

1. 会の目的は、家畜繁殖に関する研究の促進と研究成果の普及である。
2. 会は、家畜繁殖の研究および業務に従事している者で構成する。
3. 入会を希望する者は、会員の推薦を必要とする。
4. 会費は、当分徴収しない(会費は会誌発行の昭和30年迄徴収しなかった)。
5. 会務に当る役員について、
イ. 会が軌道に乗るまで、会長は置かない。理事長が会務を総括する。
ロ. 理事長は、理事の互選で決め、理事長を補佐するため、理事の中から常務理事を委嘱する。
ハ. 会の運営を審議するため、理事を若干名置く。

 当時の理事に、斉藤弘義(畜産局衛生課・理事長)、加藤浩(日本獣医畜産専門学校)、星冬四郎(東京大学)、吉田信行(畜産試験場)、川島秀雄(家畜衛生試験場)、三浦道雄(畜産局生産課)、星修三(畜産局衛生課・常務)が選任され正式に発足しました。


 家畜繁殖研究会が創設されるまでの家畜繁殖行政の概要と家畜繁殖研究会の創設の経緯について述べました。家畜繁殖研究会は、終戦に伴う家畜繁殖行政の落し子として誕生したと申せますが、その後会員各位の努力で今日の発展をみたことは、研究会の創設に携った一人として慶びにたえません。このことを亡き先輩、同僚に伝える術があればなぁと思う次第です。


(現住所:鹿児島市)



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