留学体験記
チェコ共和国 大串素雅子 |
【JRD2005年10月号(vol.51, No.5)掲載】
「なぜチェコなのか?」これが、チェコに留学することを伝えた私の友人や知人の第一声であった。それに対して私は、「チェコに指導教官の友人がいて、学生をほしがっており、さらにメンデルが生まれた国だから。」と訳の分からないことを宣っていたと思う。その当時の私は、学生時代に必死に取り組んでいたテニスサークルの活動を終え、ようやく研究をまともに始めたところで、ブタ卵母細胞を顕微操作する実験を始めていたものの、何をしても卵母細胞が死滅する日々。どうにかならないものかと思っていた矢先に、筑波で開催されたクローンの国際ワークショップ(Current Status and Perspective in Cloning and Related Studies, 15-18 October, 2001)に呼ばれた外国人の研究者たちが神戸大学を訪れて学生向けにセミナーを行ってくださる、という機会に恵まれた(親切にも我が指導教官である宮野教授と眞鍋教授がorganizeしてくれたのだが)。ワークショップより小規模で、セミナーに参加した外国人の方々がとてもフレンドリーで、その当時、修士課程の1年であった自分でも気軽に質問ができる雰囲気であったことをとても印象深く覚えている。そのセミナーの中で、チェコ畜産研究所のJosef Fulka Jr.博士が誰かチェコに来て実験してくれる学生はいないものか、と宮野教授にもちかけたのが、私がチェコに留学することになった発端である。Fulka博士の条件は、卵母細胞を扱え、顕微操作ができる学生ということで、まともに顕微操作の実験に成功したこともないのに、私に話しがもちかけられたのである。今思えば、研究とはどういうものかも理解できていないうえに、実験もうまくできない私をよく候補者にしてくれたものだと思う。宮野教授がチェコに行って実験する気はないかと尋ねてきた時の私はといえば、ドクターコースに進学し、研究者になりたいとは思っていたものの、自分の実験がいっこうに進まない日々を過ごしており、留学して今の自分の研究室にないもの、英語でいろんな研究者と会話し研究を進めていくことを学びたいと思っていた。宮野教授に尋ねられた時には、何の躊躇もなくYesと答え、逆に自分以外の人が行きたがるのでは、という方が心配だったことを覚えている。
写真1 チェコ共和国の位置
チェコは“the heart of Europe”ともいわれるそうだ。
このようなきっかけでチェコ留学が決まったわけだが、チェコでの生活は面白く、なぜ実験するのかを深く考えさせられた日々であり、自分が日本人であることを強く認識した日々でもあった。
写真2
チェコは世界一のビール消費国といわれている。代表的なビールであるPilsner Urquell。昔は天然の冷蔵庫である地下室を利用してこの写真の樽で作られていたそうだが、生産が間に合わず最近は工場で作られるようになったらしい。工場見学の人のみが飲める樽だし直後のnon-filterビール。本当においしかった!チェコ共和国と言うと、いつも「どこにあるの?」と聞かれるので、場所を説明しておくと、ドイツの東、オーストリアの北、ポーランドの南、そしてスロバキアの西側に位置している。緯度は北海道より少し北、気候は北海道とほぼ同じ感じである。冬は寒い日にはマイナス20度になるが、雪はあまり降らず、夏は暑い日は30度になる日もあるが、湿気がないので、陰に入ればひんやりする感じである。何よりも日本と違うと思ったのは日の長さである。夏は朝の4時くらいから夜の9時、10時くらいまで明るく、冬は朝の7時か8時くらいから明るくなりはじめ、夕方3時か4時になると暗くなりはじめるのである。夏は非常に短く感じられ、冬の暗さが印象的である。ヨーロッパの人が、やたらと陽に当たりたがり、晴れの日を喜ぶ気持ちを実感できた。料理は肉料理が基本で、何よりもビールが非常においしい。日本にドラフトビールの作り方を伝えたのはチェコ人らしく、意外なところでのつながりに驚かされた。
2002年の5月にはじめてチェコ共和国のFulka博士の研究室を訪ねた。Fulka博士はプラハにあるチェコ畜産研究所に所属し、研究室は、研究員が1人、ドクターコースの学生兼研究員が2人、修士課程の学生が1人、学部生が数人、テクニシャンが3人と小さなラボであった。ただ、ドクターコースの学生以上には、1人1部屋が与えられ、1人1台の実体顕微鏡、顕微操作を行う学生にはさらに1人1台ずつ位相差顕微鏡とマイクロマニュピレーターが与えられており、日本の大学の研究室で、何もかも共同で使用することに慣れていた私は非常に驚いた。まだ修士課程の学生であった私は、それまでほかの研究室で実験を行ったことがなく、自分が普通だと思っていることがいかに普通でないか、またいかに自分が指導教官の指図に依存して実験を遂行していたかを実感し、1か月半の滞在を終えて日本に戻った。
ドクターコースに進学後、もう一度2003年10月から2004年12月までチェコに滞在した。まず、最初にFulka博士にブタの単為発生胚の体外培養法の確立を頼まれ、日本の研究室では難なくできることであったので早速実験に取りかかった。しかし、日本ではうまくいっていたことが、チェコではうまくいかず落胆。さらに、注文した試薬、器具が思ったように届かず、イライラはつのるばかり。日本ではスムーズに動くことが動かないことにはじめて気付き、さらに、日本人がいかに仕事中心に生活しているのかも痛感した。周りのスタッフは実験に振り回されることなく、時間どおりに研究室に来て、ある程度の時間がくれば帰るのである。決められた時間内で成果を出す、という習慣が身についている。私のようにだらだらと研究室に残って実験はしないのである。しかしながら、自分はそういう環境で育っておらず、能力も低いので、だらだらとやらなければ結果が出ず、しょうがない、と開き直り、いつも周りのスタッフから意味の分からないチェコ語でからかわれながら、研究所に居残って実験していた。
写真3 チェコに滞在中、毎日対面していた私専用の実体顕微鏡と位相差顕微鏡とマイクロマニュピレーター
実体顕微鏡は温度が調整できる無菌ボックス内に入っていて、卵の操作が行いやすいよう工夫されていた。周りの研究員の話によると、チェコ政府は科学を趣味だとみなしているらしく(?)、国立研究機関の科学者の給料も低い。優秀な若い人達はアメリカに行って研究者になるか、科学者にならずに外資系企業のサラリーマンになりたがる。スタッフが少なく、予算も日本のよう十分にない状況のなかで、世界に通用する研究を次々と生み出しているFulka博士から学ぶものは非常に多かった。自分がやっている実験に対し、目標を持ち、ひとつひとつ分かるところから自分のできる範囲でアイデアを出し、証明し、データを出して実験を前に進めていく姿勢は、自分にはなかったところであった。実験がこれ以上先に進まず、私が立ち往生していると“What do you want to show us??? Why not....?”と、考え方を変えさせるような、時には全くできないようなことを言う。しかし、そういった考え方を教えてもらったおかげで、日々、実験に挑戦し、実験を心底楽しいと感じることができた。このような日々があったからこそチェコを存分に楽しめたのだと思う。
チェコという国は、まだ日本人にとっては馴染みが薄い国とは思うが、東欧独特の古い文化が残った非常に美しい国である。シャイではあるが、暖かい人柄の人達が住み、ある意味日本人と感覚が似ていてなじみやすい気がした。私が宣伝するのもおかしいが、ぜひ一度は訪れていただきたい国である。この留学で得た経験は何事にもかえがたい貴重な経験となった。ろくに一人暮らしもしたことがなかった自分が独りチェコに住み、英語もろくに通じない国で生活し、実験までし、日本で暮らすよりも、毎日150%くらいのエネルギーがいったが(働いている時間は日本より短いのにやたらと眠くなる時間が早かった。)、その分得られたものも大きかったと思う。このような機会を与えて下さった宮野教授には感謝してもしきれない。また、受け入れ側となって下さったFulka博士には、非常に迷惑をかけた。落ち着きのない私がする失敗をRadomir Kren研究員、Fulka博士の娘のHelena Fulka研究員が、実験が滞りなく進むようにバックアップしてくれ、またプライベートでも温かく支えてくれた。町に住む外国人は私だけという状況のなかで、分からないことが多く、ラボのスタッフにかけた迷惑はこのうえないと思う。研究所のゴミ捨て場からソビエト連邦製の冷蔵庫を研究員の人たちと下宿に運んだ思い出は一生忘れないと思う。ほかのラボのスタッフも含め、彼等には非常に感謝している。この場を借りてお礼を申し上げたい。
写真4 プラハの町並み
プラハの町並みは世界遺産に指定されており、ブルタバ川(有名な作曲家スメタナの“わが故郷”で、メインテーマとなっている川)を中心に旧くて統一感のある町並みが広がっている。なお、Fulka博士の研究室は現在、卵子を扱える(できれば顕微操作のできる)日本人研究員を募集しています。興味のある方は、神戸大学農学部 宮野(miyano@kobe-u.ac.jp)までお問い合わせ下さい。
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