留学体験記
米国国立癌研究所(NCI-FCRDC) 山口大学農学部 |
【JRD2004年2月号(vol.50, No.1)掲載】
これまでなかなか留学の機会に恵まれませんでしたが、一昨年夏より1年2ヶ月の留学の機会が訪れましたので、留学記として寄稿したいと思います。
私の留学先は米国国立衛生研究所(NIH)に所属する国立癌研究所(NCI-FCRDC)でした。「アメリカのNIH」という話はよく耳にすると思いますが、そのしくみを知らない人は意外に多いので、ここで簡単に説明しておきます。NIHは独立した国立研究所群の総称です。つまり、NCI, NIDDK, NIA, NIEHSなど全部で約28の研究所の総称がNIHです。これら研究所の多くはメリーランド州ベセスダにあるNIHメインキャンパスに位置し、NCIも癌そのものに関係する研究室の多くと病院は、メインキャンパス内にあります。NCI附属の最先端技術研究所と発生生物学研究所(FCRDC)はメインキャンパス外にあり、私の所属していた後者の研究所はフレデリックというメインキャンパスから車で約30分のところにあります。あまり場所の話をしてもぴんとこないかもしれませんが、フレデリックは大統領の避暑地キャンプデービッド(当然地図には載っていません)の近所で、研究所自体は陸軍の基地の中にあります。以前は生物兵器を開発していた研究所だそうですが、ニクソン大統領時代に行った生物兵器撤廃に伴って、国立癌研究所に改築されました。最近では炭疽菌が盗まれたところでも有名です。盗まれたビルは廃墟になっており、お化け屋敷のようなところでした。夜な夜な人影がみえるという変な噂があり、これと盗まれた関係はわかりませんが、問題になってから一気に改修されました。
今回の留学の目的は大きく二つあり、ひとつはこれまでの研究を発展させるとともに(運良く日本でやっていた哺乳動物の着床に関して研究を続けることができました)、10年先にも通じるコネクションの構築で、もうひとつはアメリカの最近の研究の人海戦術とはどのようなものかを肌で感じ、そのシステムについて勉強することでした。留学の第一義である前者の話は後で述べることにして、後者の話を最初にしようと思います。私の所属していたCDBL(Cancer and Developmental Biology Laboratory)は、NCI-FCRDCが持つ約10の研究室のなかの一つです。この研究室は私の直属のボスであるDr. Colin L Stewart(1990年に白血病阻止因子(LIF)のノックアウトマウスが着床期流産を引き起こすことを示して一世を風靡した)とその直下にいる二人の子ボス(Dr. Terry Yamaguchi: Wnt シグナリング、およびMark Rewandski: 四肢の発生学)で運営されているところです。現在、大ボスのDr. Stewartは、哺乳類の着床、ゲノムインプリンティング、および核ラミナの仕事を3大柱として研究を進めています。今年度のNCIの総予算は1,000億円で、予算配分は当然研究室によっても違いますが、大ボスは平均すると3−4億円の年間予算で部屋を運営しています。この予算をどのように執行するかはボスの考え方次第ですが、Dr. Stewartの場合、人件費に相当のウェイトを置いているため、一般的な日本の大学のように消耗品の使い方にみんなが気をつけているところでした。構成メンバーを列挙すると以下のようになります。Lab Chief: Dr. Stewart, Administrative Manager(事務関係の秘書)1名, Laboratory Manager(テクニシャンの親玉)1名, Post-doctoral fellow 8名, Pre-doctoral fellow 1名, Research technician 4名. 総勢16名の大所帯です。このうちパーマネントの職(アメリカ人でもpermanent jobとtenure jobを混同している人がしばしばいます。Tenureとはある一定期間の身分が保証されている職で、例えば5年のtenureの職であれば、5年間の間は誰もクビにすることができません。しばしばfull tenure=permanent を単にtenureというアメリカ人がいるので混同があるようです。)を持っているのが、前者3名とResearch technicianのうちの1名です。(ポスドクは不安定というイメージを持っている方が数多くおられると思いますが、人をクビにするのは大変なことです。アメリカにおいてはポスドクの職がたくさんあること(研究費を人件費に使える)から自分から職を点々とすることはありますが、めったなことではクビにはなりませんし、きちんと9時―5時の仕事をして、永住権を取ることを目的にしている外人部隊は結構います。NIHではポスドクの年限は5年と定められていますが、すべてボス次第で適当な名前のポストを作って3年のtenureで更新とかそんなのは普通に見受けられました。)Dr. Stewartを含む全員の給料がすべて研究室予算の中から支払われることになります。研究室は3年に一度見直しがあり、年間予算の増額か減額が決定します。これによってさらにポスドクを雇うことができるか、それとも削らなければならないかが決まることになります。幸いなことにDr. Stewartは破竹の勢いで業績を伸ばしていますのでしばらくは安泰です。私を含めた8人のポスドクの研究テーマですが、私が留学した当初、哺乳類の着床の研究者は3名、ゲノムインプリンティング3名、核ラミナ2名という比率でしたが、ラミンの仕事がブレークしたことにより着床の研究者1名とインプリンティングの研究者が2名、ラミングループに投入され、比率は2:1:5になりました。この5人は十人十色の専門分野を持ち、毎週1回のグループミーティングを行いながら役割分担の再確認を行いながら精力的に研究を進めています。5人はそれぞれ組織培養の名人であったり、ベクターコンストラクト作製の名人であったりしますが、日本の研究者のように「何でもやるよー」という人はあまり見受けられませんでした。私の所属していた研究室は外人部隊が多く(NIHは全般的にそんな傾向があるようです。)、約6割が外国籍の研究者でした。ポスドクに対するテクニシャンの割合が低いので、基本的にはいろいろなことを自分でやらなければなりませんでしたし、シークエンスだの組織標本作製だのは所内のサポーティングラボに発注すればよいのですが、結果が貰えるまでに時間がかかるので、急いでいる場合には全部自分でやらなければいけませんでした。もちろん結果が出てくるまでの時間をうまくつかい、たくさんのことを仕掛けておけば多くの仕事を平行してすることができます。蒸留水は壁の中を流れていましたし、日常的に使用する緩衝液等は毎日補充されていたので研究の進行はスムースでしたが、やはりそれ以上に良かったのは、一日中研究のことばかり考えていればいいという状況でした。以前に岡崎国立共同研究機構の基礎生物学研究所にお世話になっていましたが、蒸留水の供給を含めて、研究室の構造、体制はNIH(研究室のシステムは NIH全体で統一されているとのことでした。)がモデルになっているようでした。メキシコを初めとした中南米諸国においても国を代表する研究所はほとんどがNIHをモデルとしているとのことでした。
さて、実際の研究についてですが、日本で2年ほど続けてきた哺乳類の着床に関して研究を発展させてきました。1年2ヶ月という時間の制約もあり、いくつか同時に行ってきた研究もまとめあげるまでには至りませんでしたが、留学中に得たデータを日本でも使ってよい、今後共同で研究を進めようとのありがたい言葉を頂き、現在、研究室のセットアップで奔走しているところです。私は仕事を3本柱で続けていました。一つは、マウスの着床に必須であるLIFの下流で動いている分子の検索をAffymetrix社のマイクロアレイを用いて行うこと。二つ目は、このスクリーニングで得られた分子群を従来のノックアウトとは別の方法で簡便迅速に潰す方法の開発、そして実際に得られた興味深い因子の発現解析でした。未発表データなので実験の詳細については言及できませんが、マイクロアレイについて少し説明したいと思います。私の用いたマイクロアレイは約1万2000個の短いcDNA断片がチップに埋め込んであるもので、この数はマウスで転写される遺伝子数の約1/3に相当します(現在ではESTもたくさんありますが、全発現遺伝子の埋められたチップも販売されているようです)。このチップは、一つの遺伝子に対して約50個の異なるcDNA断片(意図的にポイントミューテーションを入れてあるものもある)がチップ上の異なる位置に埋め込まれているという特徴を持ち、プローブとの理論的な結合力とチップの位置による実験のばらつきを最小限に抑えるべく設計されているという優れものです。実際に私は、同じ実験を3回繰り返しましたが、実験によるばらつきはすごく少ないという印象を受けました。問題となるのは一枚の価格ですが、2003年12月現在、私の所属する山口大学で購入した場合一枚約10万円です。以前にテストアレイというずっと安いチェック用のアレイで試しましたが、この会社のアレイはリプロービングが出来ませんのでちょっとの失敗でもアレイが台無しになり、全体としてとても気を使った実験になります。ここに山口大学で購入した場合ということを書きましたが、購入価格はその所属機関によって異なります。NCI-FCRDCでは、一枚あたり約4万5千円でした。これはNCIがその差額を支払っているからだとのことでした。それでも高いですね。ところが、激安で買えるところがあります。それはニューヨーク州にある大学を含む研究機関です。ここではなんと50ドルで買うことが出来ます。残りのお金をすべてニューヨーク州が支払う格好なのだそうです。日本の大学人としてこれを利用するのがよいか悪いかはここでは置いておいて、研究を発展させたい若い世代としては、利用したいところではあります。共同研究という形で滑り込み、信頼関係を築いて一気に盛り上がるのも戦略の一つではないかと思っています。さて、もう一つアレイで問題となるのはその解析の難しさであるという話をよく聞きます。これには三つ原因があると考えています。一つは、網羅的に得た知見を如何に現象へと結び付けていくかという点で、抜本的な技術革新がないこと、二つ目は、最近のプロテオミクス解析の進展に伴って、遺伝子発現とタンパク質翻訳の間に非常に大きなギャップがあることが明らかとなってきたこと。最後は、実験指揮者と実行者との間のコミュニケーションの問題です。一番二番は、次第に解決されてくると思いますが、最後の点が一番やっかいです。指揮者は、アレイをやれば何がしかの結果が得られるだろうという漠然とした期待感を持って実験を指揮することが多く、しばしば実行者が混乱するという話をよく耳にしました。私の場合は幸いにもそのようなことはありませんでしたが、何度も何度も解析をするうちに、結局1年間かって最初に実行者が行った解析結果を採用するという事態になった例も聞いています。実行者が一番自分のデータをよく知っているわけですから、指揮者は実行者の話をじっくりと腰を据えて聞いてあげることが大切です。
終わりになりますが、紙面が限られていること、文章では残せないこともたくさん学んできましたので、学会でお会いした際にはお気軽にお声をおかけください。言葉になる範囲でお話したいと思います。(留守中、諸般の学内業務を肩代わりしてくださった山口大学農学部の先生方にこの場を借りて御礼申し上げます。)
第18回日本生殖免疫学会総会・学術集会で講演されるStewart博士
山口大学大学会館にて 2003年11月28日
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