繁殖学の巨星

 正木 淳二 



 繁殖研究のリーダーとして一時代を築かれた英国ケンブリッジ大学のジョン・ハモンド博士(Sir John Hammonnd, 1889-1964) とタデウス・マン博士 (Prof. Thaddeus Mann, 1908-1993)。異なる背景の下、それぞれ輝かしい足跡を残された両先生は、私個人にとっても、仕事、生き方両面において貴重な指針を与えて下さった方々だった。1952年、私は当時千葉市にあった農林省農業技術研究所家畜部・畜産化学部(現農水省畜産草地研究所の前身)に採用され、西川義正先生(後に京都大学教授)を科長とする繁殖科に配属された。当時からハモンド先生のお名前は常々伺っていたので、1960年、現地で直接お会いできる機会を得た時はまさに夢のような心地だった。すでに、大学教授および付属繁殖研究所の初代所長職を退いて6年経過しておられたが、学内には現役時同様、文献に囲まれた先生の居室が残されていた。40歳ほども違う若輩の私に対しても、これまで日本からの多くの訪問者を感激させた、ていねいな応対ぶりで、一挙に緊張がとけたのを覚えている。途中、書棚から分厚いケースを取り出し、「全部日本からの別刷りですよ」と提示された。この時、諸先輩の報告が先生の書庫に大事に保管されているのを知って、多くの日本人研究者がハモンド先生との交流をいかに大事にして来られたか改めて認識した。特に印象に残ったのは、「日本は、馬と豚の研究が優れていますね」といわれた時で、反射的に母国の諸先輩のお名前が浮かんで来た。同時に、これからは海外にも積極的に自分の仕事を紹介することの大事さを痛感させられた。さらに衝撃的だったのは、「私の仕事はもう古い」とつぶやかれた時である。それは、外国から来た初対面の若者を一瞬驚かせる言葉だった。だが、その謙虚さの中に、万人に敬愛される先生の人柄が覗けたようにも思えた。1年間のケンブリッジ滞在中、正式に仕事関係のお話をうかがう機会はそれ以後訪れなかっが、同じ農学部でフェレットの研究をしておられた後継者のジョン・ハモンド Jr.先生が広い庭のある自宅へ招待して下さる時は必ず父親のハモンド先生も同席され、お孫さんを囲んで一緒に風船をつきあったりした。訃報をいただいたのは、その3年後だった。

 後年、立寄った米国カリフォルニア大学バークレー校の構内で、即売中の古書の中からハモンド先生36歳時の著書「Reproduction in the Rabbit (1925)」を見つけた。ウサギは先生の歩まれた畜産を背景にした繁殖学の中で原点ともいえる動物で、その姿勢はハモンド門下の卵子研究者C. E. Adamas 博士や“capacitation”の発見者として知られるM. C. Chang博士に継承され、さらに全世界に発展して今日に至っている。研究予算を節約するために家畜の代わりにウサギを愛用されたことや、牛馬の場合も小型のデキスター種やシェットランドポニー種を多用されたことなど共感を呼ぶ話である。なお、ハモンド先生の紹介記事としては、西川義正先生寄稿の日獣会誌 7:29-37 (1954)および家畜繁殖学会編の「家畜繁殖学最近のあゆみ (1957)」にも詳しく述べられている。

 ハモンド先生の後を継いで繁殖研究所の2代目所長となられたマン先生の場合は、やや驚きの人事であったと聞いている。裕福な牧場主の家系に育ち、進路として悠々農学部を選ばれたハモンド先生に比べ、マン先生の生い立ちは波乱に富む。先生はポーランド東南部の都市リボフ(Lwow, 現ウクライナ領 L'viv)に1908年に生れ、故郷の大学の医学部に進み、生化学分野の研究で医学博士号を取得した。1935年、ロックフェラー研究員として、後に永住することになった英国へ渡り、ケンブリッジ大学モルディーノ研究所のデイビッド・ケイリン教授 (Prof. David Keilin) の下で研究を発展させ、PhD および理学博士号を取得された。1944年以降は農学分野で発展を続ける家畜人工授精に刺激され、生涯の仕事となった精子、精液の生化学的研究に着手された。1954年に出版された著書「The Biochemistry of Semen」は新しい学術分野の解説書として注目を浴び、日本でも理学系研究者により翻訳されて話題になった。ハモンド先生時代、ケンブリッジ郊外に設置された大学付属の繁殖研究所は、同時に農学研究会議所属の研究所として、国内外の繁殖生理と人工授精研究をリードして来た。ここに1954年、異色の経歴をもつマン先生が、2代目所長として起用された。以後1976年に退任されるまでの22年間、初代ハモンド所長が重視した“応用に結び付く繁殖研究”を継承しながら、同時に専門の生化学部門を強化して、理学、医学領域からも注目される研究所に発展させた。当時マン先生は学内の複数の要職を兼務しておられたので、当研究所に姿を見せるのは週1〜2回に止まった。だがその時は、研究員一人一人を回って仕事の進み具合をていねいに聞き、その都度適切なアドバイスを残してゆくという方針をとられた。時間厳守で全くスキをみせない対応に、ベテランの英国人研究者も緊張感をいだいているのが分かった。几帳面な性格を表すボールペン書きのはっきりした文字、素早い返事も有名だった。ハモンド先生が繁殖生理学を軸にした家畜生産に関わる課題を広く取り上げ、畜産学の体系造りに尽力されたのに対し、マン先生は家畜繁殖学を大事にしながらも精子・精液研究を通じて動物界に共通の生殖機構の解明に意欲を燃やされた。その偉大な足跡と膨大な関係文献は、その後出版された代表的な著書「The Biochemistry of Semen and of the Male Reproductive Tract (1964)」および、夫人の Cecilia Lutwak-Mann 博士と共著の「Male Reproductive Function and Semen (1981)」の中に整理され、詳述されている。

 異なる路線を歩かれた感のあるハモンド先生とマン先生であるが、共通していたのは、若手研究者や多くの外国からの訪問者を温かく迎え、卓越した識見をもってていねいに指導されたことである。両先生の偉大な足跡の余韻は、いつまでも消えそうにない。



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