身近な仕事を通してみた臨床繁殖回顧
大地 隆温 |
家畜繁殖研究会が発足して50年、関係した事柄を身近で狭い範囲で考えてみた。同会の発足は1948年(昭和23年)、当時筆者は農林省獣疫調査所中国支所(後の家畜衛生試験場中国支場)の助手で、渡辺守松支所長、岩田明敏室長の指導で近畿・中国地域の但馬牛の流産防止対策で検診、治療に従事し、Trichomonas foltusやVibrio foltusの培養、継代、Trichomonasワクチンの製造(効果疑問)、ペニシリウム培養液での生殖器洗浄等に携った。筆者は携ってないが流産と関係あるBrucella hoptospira等の研究もなされていた(川島、岩田、広田ら)。これら微生物による流産対策が場全体の主な業務であり、講習会や現地指導も実施された結果、この種微生物による繁殖障害は終息した。家畜衛生試験場の支場は県や農協等の畜産関係機関と協力し、地域畜産家支援が主な使命の一つで現地との密接なコミュニケーションが要求された、国の方針としても繁殖専門の研究技術者の養成が急務となり、数名が選抜され、中国支場で研修、筆者もそのうちの一人であった。指導責任者は山内亮室長で内外文献や自身の経験等を交えての、正に珠玉の名講義で、ご苦心が偲ばれ、性ホルモンに関する認識が一層高まった。当時、種雄牛の栄養と男性ホルモンとの関係が論じられ筆者は尿から抽出した粗男性ホルモン分画を去勢鶏のトサカに塗布して増大度をみたり、雌メダカ飼育の水槽中へ添加して腹ヒレにできる顆粒の増加数等で検定していたが、間もなく百目鬼郁男技官らの科学的方法が進歩しホルモン検定は急速に普及した。
1960年(昭和35年)筆者は繁殖室長として北陸支場へ転勤した。臨床の杉浦支場長の下、広い視野から繁殖をとり上げると共に、吉田前支場長の栄養と繁殖との考え方を踏襲し、飼料給与と生理的検査値との関連性の検討が主な業務となった。北陸支場でも現場との繋がりは重要で、畜産コンサルタント班を結成して農家の経営診断を行なったり、適宜農家と話し合ったり、啓蒙運動の効果が期待される時代でもあった。患牛の入院施設を設けたり、難産の時はかかりつけの獣医師と共同で作業し、連繁を保つ努力も行なった。後に渡瀬、高橋両技官も繁殖室に所属、野外の仕事に従事した。
この頃、農水省畜産試験場関連機関等では人工授精、受精卵移植等の研究がなされ、多大の成果が認められつつあったが、ここでは割愛させていただいた。人工授精を嫌う農家もあり、人工受精卵と一緒に説得に伺ったことも屡々経験した。実地診療の他、時々地元獣医師会で繁殖障害の話を頼まれ、山内室長直伝のホルモンの話をした時、信用度絶大で長老の小熊獣医師会長が「大地サン、ホルモンの効用はよく理解できましたが、その前にもう一つ大切なことは飼養管理のように思いますが」といわれ、筆者にとって、経験を積めば積むほどこの言葉は金科玉条、座右の銘となった。病原微生物、ホルモン関連、栄養等の各領域の進歩で畜牛の飼養も略安定し、発展が見込まれるまでになるには2〜3年を要した。
1970年(昭和45年)、麻布大学臨床繁殖学講座主任をおおせつかり、同時に繁殖研究会のお手伝いをさせていただだくことになった。1978年(昭和53年)山内亮会長の下、事務局長は大地理事長、紫野正雄、川上静夫両局員と共に、1984年(昭和59年)まで研究会の業務をさせていただいた。当時は繁殖に関する各種の研究が盛んで、会員も1,200名前後であった。会員各位のご協力を感謝すると共に、鈴木会長、中原理事長に会務を引きついでいただき任を終えた。
但馬地方での和牛の繁殖障害に端を発した繁殖研究会の設立当時の農家の多くは玄関をはいると土間の片側に牛の小屋があり、反対側の居間から「お周り」と声をかけると小屋の中を牛が一周したり、あるいは但馬牛界の第一人者であった兵庫県美方郡の田畑参事は牽き網一本の操作で種雄牛を基盤の上にあがらせたり、牛と人との絆が感じられる時代でもあった。経済優先の情勢下、かつての家畜繁殖研究が本務であった家畜衛生試験場中国支場や栄養と繁殖で貴重な貢献をした北陸支場は今は跡かたもなく、他の施設やマンションとなり、地域の牛の頭数や後継者も激減した。
最後にJRD誌にみられる高度な基礎的研究の益々の発展を期待する。なお、繁殖研究会を含む繁殖界の過去の動向については、中国支場創立20周年記念出版(「家畜繁殖学最近の歩み」P389-409. 高村禮)の詳細な記述がある。
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