「温故而知新可以為師矣」 |
前車のわだち
横山 昭 |
【JRD2002年6月号(Vol. 48, No. 3)掲載】
温故而知新可以為師矣。古い物事を究めて、新しい知識や見解を得ること。論語の“為成”編に出ている。要は、歴史を勉強しろと云うこと。これは良くわかる。けれども、其の後の“そう云うことが出来て始めて人の先生になるに相応しい”と云うのがいけない。
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古きを温ねようにも、過去は芒として夢の如し。記憶もおぼろげである。その上、昔の記録もどこにしまったかわからなくなってしまった。古いことの中に新しい価値や意味を見出すなんてことは、もう、とうに誰かがやっている。知新可以為師、新しいことも良く知っている人が師匠になれる(この解釈はちょっと違うんじゃないかな。広辞苑第5版ではこの解釈部分が括弧にはいっている)。消滅寸前の筆者にはこんな資格はない。新しいことは、本当に難しい。それを知り、理解する気力、体力ともになくなりつつある。人の師なんてとんでもない。せめて、周回遅れにならないようにつとめている。駄文で貴重な紙面を使うことは、会費の無駄遣いだ。などと云いながら、待てよ、もしかしたら前車の覆えるは後車の戒め(出典:漢書:カンジョ、賈誼伝)。私でも、前車の轍(わだち)くらいにはなるかも知れないと思い直した。思い出すことを少し書いてみよう。
論語(衛霊公篇)に“君子もとより窮す。小人窮すればここに濫す”と云う言葉がある。君子ならざる筆者、窮して道にはずれた乱文を書くと云うところである。
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1955年、家畜繁殖研究会誌第1号が発刊された。星冬四郎先生が云われたことを思い出す。“学会に発表したデータをすぐに論文にする習慣をつけなさい。其の論文を家畜繁殖誌に投稿しなさい。速報的なもので良い。そうすることで、考えがまとまり、次の実験の計画がたつ”と。また、図や表の説明は英語で書くようにとも云われたと思う。日本語の本文が読めなくても、図や表と其の英文の説明を読めば内容を大まかには理解できるだろうということだ。しかし、家畜繁殖誌1巻3号、2巻2号の私自身の論文1,2)では、図や表に説明がなかったり、あっても日本語である。3巻4号に出した論文3)には図、表に英語の説明が付いているから、私の思い違いかも知れない。
研究生活を始めて5年。そんなチンピラ研究者が投稿できる雑誌はほとんどなかった。あるいは、ないと考えていた。家畜繁殖誌が発行され、投稿からあまり待つことなく自分の実験結果を記した論文が印刷になる。多くの人に読まれる。これは、当時の我々若い研究者にとって大変嬉しいことであった。
話が少し横道に行く。星冬四郎先生は、学会講演の中でも、“この部分は誰々がやった、これは誰々が出したアイデアだ”などときちんとそれぞれの人の名前をあげておられた。研究者としてたとえ未熟な者でも、研究の場においては対等であるという先生の姿勢の現れではなかったろうか? 若い研究者にとっては励ましにもなる。私自身もこの無言の教えを守るように努力をしたつもりである。星先生と、私の指導教官であり恩師の一人でもある内藤元男先生はお二人とも推理小説が大好きであった。“宝石”という推理小説雑誌を回覧しておられたのを思い出す。
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一方、国内の基礎的な内分泌学研究者の間にも動きが出てきた。出身学部あるいは所属学部にとらわれずに内分泌学研究者が集まろうという、日本内分泌学会東部部会と云う学会を発足させた。戦後10年経ったそのころ、世の中は戦後の混乱からも抜け出しつつあった。海外からの情報も手に入れやすくなって来た。そうなると、日本からも世界に情報を発信しなければならない。そこで、この学会は英文の機関誌を発行することになったEndocrinologia Japonica (Endocrin. Japon.) である。(1950年前後、日本の海外情報の源−雑誌に限らず単行本も−はアメリカCIEの図書館だった。東京では日比谷にあった。Xerox copy等勿論ない。写真に撮って複写するのもお金がないからできない。仕方がないから、筆写である。ボールペンなんかない。万年筆は持っていない。インク瓶と、ペンを大学ノートと一緒に鞄に入れて図書館に通い筆写した。筆写は大変な作業だが、英語を書くときに大変役に立った。)
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私の恩師は佐々木清綱先生である。家畜生物学に基づく畜産学教育を推進された。東北大学、名古屋大学をはじめ、戦後に創設された畜産学科の多くは先生のこの理念に沿っている。先生は研究成果を世界に向けて発信する事が必要だといつもおっしゃっていた。論文を書くならば英語でと云うことである。そうは云ってもそんなに英語が書けるはずがない。何とかでっち上げた英文を、英語を母国語とし、日本的論理に詳しい人に直して貰う。直して貰った論文をどうするか?世界で広く読まれる雑誌に投稿するなんてことは、若造には考えられない。先輩もあまり知らないらしい。Endocrin. Japon. はそんな若者に都合の良い雑誌だった。泌乳ラットの視床下部を電気的に破壊し、破壊部位と其の後の乳腺活動とを論じた論文を数編投稿した4-8)。
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1957年頃、名古屋大学農学部農芸化学科に、横山さんと云う日系二世の方が来ておられた。多分sabbatical leaveだったのだと思う。植物生理学が専攻だったが、一般生化学の輪読会も開いていた。私も其の会に参加して生化学と英会話や英語発表の勉強をした。あるとき、英語で書いた論文を横山さんに見て貰った。
彼曰く、これをどこに投稿する。
私:まだ決めていない。もう少しデータを増やして日本の英文誌に投稿するつもり。
彼:日本人はこの様な論文をどうしてNatureやScienceに送らないのか?この論文の英語は私が見た。良く書けている。中身も良さそうだ。挑戦してみたらどうだ。
(私は、おだてに乗ってすっかりその気になってしまった)
私:どうすればよいのだ?
彼:投稿規定を調べてそれに従って原稿を送ればよい。
私:ではそうする。
かくして原稿をNature, Londonに送ってしまったのである。暴虎馮河(ボウコヒョウガ、論語:述而篇。虎を手打ちにし河(黄河)を裸足で渡るような向こう見ずな事をすること)、匹夫の勇(孟子:梁恵王下、三章。血気にはやる小男の思慮分別のない行動)と云うべきか、おっちょこちょいと云うべきか、とにかく恐い者知らずの若者であった。
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この論文には次のような背景がある。
1957年当時、下垂体が視床下部の支配を受けること、視床下部から何らかの物質が、下垂体門脈系に入り、下垂体ホルモンの分泌を調節していることはわかっていた(G.W. Harris, J.W. Everett, C.H. Sawyer, J.D. Green, D. Jacobsohn, 小林隆ら)。この物質が、放出因子、放出ホルモンといわれる以前の物語である。E. and B. Scharrer夫妻や W. Bargmannら(日本では佐野豊、小林英司、榎並仁ら)は形態学的に次のような事を明らかにした。すなわち、 神経葉のホルモンは視床下部の特定の神経核で生産されたものであり、それらは軸索を流れて神経葉に達し蓄積される。
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乳子が乳頭を吸う刺激、あるいは、乳を搾るときに乳頭にあたえられる刺激を吸(搾)乳刺激という。これが下垂体前葉からは prolactin (PRL) を、神経葉からは oxytocin (OT) を分泌させる。それぞれ、H. Selyeの古典的状況証拠9)や B.A. Cross & G.W. Harris10)の実験によって明らかになってきた。イギリスの国立酪農研究所(National Institute for Research in Dairying, Reading;NIRD、後に私もこの研究所で働くことになる)の G.K. Benson & S.J. Folleyは、形態学的に、OT投与が離乳後の乳腺退行を抑制することをラット乳腺で明らかにし、OTがPRL分泌を促した可能性を示唆した。吸乳刺激が、前葉のホルモンと神経葉のホルモンを同時に出させるきっかけになっている。吸乳刺激は求心性入力である。まず中枢にはいる。神経分泌物であるOTを出させる。分泌されたOTが、視床下部から神経葉に流れる途中で前葉に作用しPRLをださせると考えたのである。当時としては極めて無理のない考え方である。
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私も、吸乳刺激と下垂体前葉・神経葉との関係に興味を持っていた。吸乳刺激の卵巣機能抑制に注目し、OTによる排卵抑制の実験を太田克明さん(当時大学院学生、前信州大学教授)と始めようとしていた。そこに出てきたのがBenson & Folleyの論文だ。早速その追試をしようと考えた。しかし、ただ同じことを繰り返してもつまらない。なにか良い方法はないか? 太田克明さんは、乳腺のactivityを測りましょう。さしあたって呼吸を測りそれから核酸に行きましょう。横山さんは組織を見て下さい、と云う。彼の学部時代から一緒に仕事をしてきて、化学的実験を得意とする事は良く知っている。共同研究者として、ときどきは喧嘩のような議論をしながらもその後長いつきあいになった。
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うまいことに、同じ研究室の田中克英さん(岐阜大学名誉教授、当時名古屋大学助手)がWarburg検圧計を使って産卵鶏の間脳中cholinesterase活性を測っていた11)。田中さんは、中条誠一先生と共に産卵鶏の放卵が vasotocinにより起こることを世界ではじめて明らかにした12)。この仕事は、Scharrer, E. & B. “Neuroendocrinology”13)にも引用されている。岐阜大学に転出後も、世界の鳥類内分泌学をリードする数々の素晴らしい業績をあげられた。日本家禽学会会長も勤められた。繁殖学会員としても、比較内分泌学的立場からご意見を頂き大変お世話になっている。
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太田さんは検圧計の操作を習い、離乳後のラット乳腺スライスの呼吸商の測定を始めた。この結果は、呼吸商で見る限りOTの乳腺の退行抑制効果は認められないことを示した。また、離乳後OT処理にも関わらず、対照群と同じように発情が回帰した。このことは、吸乳刺激によるOT分泌がPRL分泌を促す可能性を否定するものであった。ただ組織学的にはOTの乳腺退行抑制効果が認められた。
この結果をまとめたのが前に記した論文である。おだてに乗って速報としてNatureに送った。これが受理された14)。味を占めてこの続きの論文を送った。乳腺実質と乳腺活性の指標としてDNAとRNA/DNAのそれぞれを使い、OTの乳腺の退行抑制効果を議論したものである。結論は前の論文と同じである。それも受理された15)。アイデアは新しいものではない。追試である。恐らく、乳腺の活性を量的に捉えようとした努力が評価されたのであろう。RNA/DNA比による乳腺活性の評価法は、その後乳腺研究者の定番として用いられるようになった。
そこでもう一つ。乳汁に特異的に存在する乳糖を指標にして、妊娠末期のいつ乳汁分泌が始まるのかを調べたものも送ってみた。これは、当時大学院学生だった新出陽三さん(残念ながら帯広畜産大学教授在職中に死去)の仕事である。この論文はNatureでは受理されなかったが、編集部はJ.Endocrinologyに投稿するように奨めてくれた。J. Endocrinologyに送り直すと、うまいこと受理された16)。Nature編集部の親切に感謝した。今は、乳腺細胞の乳糖合成開始を分子生物学的方法によってもっと厳密に測定出来るであろう。1950年代には、RNA/DNAを測ったり、乳糖を測るのが精一杯であった。なお、Natureに出した論文はその後組織的所見と新しいデータとを加え17)、新出さんの論文は後に卵巣除去などの実験データを加えて発表した18)。
写真1 NIRD再訪.John Tindalの研究室で.John Tindal,Laura Blakeと筆者(1976年) この研究所はThatcher政権の研究所統廃合政策のためなくなってしまった. |
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話を少し前に戻す。Natureの最初の論文が発表されたときに、私はNIRDに留学することが決まっていた。そこのボスは Dr. Folleyである。Dr. Bensonも、研究所の一員である。私の論文は彼らの主張と対立する。日本の友人の中には、行ったらいじめられるぞとひやかす人もいた。案ずるより産むはやすし。皆から暖かく迎えられ、楽しい研究生活を送った。Dr. Folleyの研究室には、私より3年前に内藤元男先生、2年前に清水寛一先生が留学しておられた。内藤先生は指導教官として、私に研究のイロハから手を取るように教えて下さった方である。清水先生は教室の先輩である。研究や人生についてさまざまなアドバイスを下さった。Dr. Folleyが私の受け入れを決めたのにも内藤先生のお力添えがあってこそと感謝している。
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さて、話はイギリスに移る。
Dr. Folleyの研究室では搾乳前後のヤギ血中OTを測定しようと云う事になった。そのためにはOTの検定法が必要だ。1959年には、ホルモンの測定にRIAを使うことはできなかった。BersonとYarlowがヒト血漿中insulinを測定したのが1960年である。生物検定しかない。OTの検定にはラット子宮の収縮を使うin vitroの方法があったが、John Tindalの考えでモルモット乳腺内圧を使うことにした。
乳腺内圧を測るトランスヂュサーも、其の圧変化を電気的に変換しペンで記録するポリグラフも用意してあった。日本では、手製のタンブールでウサギ乳腺の圧変化を拾いあげ、キモグラフに巻き付けたすす紙に記録していた。使う装置のあまりの違いに仰天した。決して大げさな表現ではない。一時が万事こんな調子だ。神武景気に入る前の日本である。しかし、モルモットは大変扱いにくい動物だった。麻酔方法、人工呼吸法、その他、その他‥‥。解決すべき問題山積。OTの生物検定方法の確立19)だけで滞在時間切れになってしまった。搾乳前後に採血したヤギ血液標本中のOTは測定できないままに帰国した。このほかに、NIRDでは去勢雄ヤギの下垂体を生後7〜8カ月で除去し、その後の発育を測定した20,21)。下垂体除去ヤギを用い、乳腺発育に必要なホルモンを明らかにするAlfred Cowieの仕事にも加わった22)。これらの実験はNIRDでなければ出来ないものであった。この時覚えたヤギの麻酔技術は、帰国後に生かすことが出来た23)。
写真2 ラットの脳に電極を植え込み中の筆者.UCLA, Department of Anatomy, Brain Research Institute, Dr. Sawyerの研究室で(1965年) |
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NIRDで一緒に仕事をしたJohn Tindalは,後にDr. Sawyer(Univ. of California, Los Angeles; UCLA, Department of Anatomy, Brain Research Institute)の研究室で働いた。それで、私をDr. Sawyerに推薦してくれた。Dr. Sawyerは、すでに、川上正澄、兼松重任(岩手大学名誉教授)という優れた日本人研究者を知っていた。これらの方々のお陰で私もDr. Sawyerの下で働くことが出来るようになった。
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Dr. Sawyerは、私に研究室で現在進行中のテーマやこれからやろうとしているテーマをいろいろあげられた。そのどれを選ぶのも全く自由。其の実験をどのように展開していくかと云うのも自由。私は次のような理由から、ラットの発情周期中の睡眠・覚醒リズムを 脳波(EEG)によって調べることにした。ひとつは、吸乳刺激は間脳に入りOTとPRL分泌を起こす。それならば、睡眠・覚醒リズムにも影響するかも知れないと考えたこと。周期中から妊娠・泌乳期までリズムの記録が出来るかも知れない。もう一つは、知力より体力勝負で行こうと考えたこと。言葉も通じない所で、いろいろ実験を組み立て、人に説明するのは大変だ。優れた知力を持った人が集まっているから私の知力では太刀打ちできない。EEGの実験なら主体は毎日の観察だ。何とかなりそうだ。しかし、睡眠リズムを調べるためには、一日の定まった時刻に脳波計のスイッチをいれ、また定まった時刻に切る。これを土曜、日曜、休みなくある期間続けなくてはいけない。ところが、これが私自身にとっても家族にとっても思ったより大変なことであった。とにかく一日二度、特に朝はきちんと定時に研究室に出なければならない。
さすがのUCLAでもラットの脳波分析装置はなかった。
写真3 Snoopyの原画を前にご機嫌のDr. Sawyer.UCLA, Department of AnatomyのDr. Sawyerのオフィスで(1986年) 1st International Congress of NeuroendocrinologyがSan Franciscoで開かれた.それに出席する前にDr. Sawyerのオフィスに立ち寄った時の写真. |
まず、動物の状態と波形との同時観察からはじめた。一日中脳波計の前に座り、ハーフウェイミラーを通してラットの状態を観察しながら脳波の波形と行動との関係を覚える。そうして波形から動物の状態を知ることが出来るようにした。そのうえで、一日の記録を波形によって(勿論、行動も見ながら)、覚醒、睡眠、REM睡眠に分けて秒単位で調べる。それぞれの継続時間の全記録時間に対する割合を出していくのだ。勿論、全記録時間は一定にしてある。最後には、記録紙から調べた各波形のしめる時間の総計と、実際の記録時間とがぴたりと一致するようになった。Dr. Sawyerの予想は、発情前期のいわゆるクリチカルペリオドには、発情周期の他の時期と違う脳波がでてくるだろうであった。結果的に彼の予想は外れた。しかし、その予想に全くこだわることなく適切なアドバイスをして下さった。これをまとめた論文24)は、ほとんど引用されたことがない。しかし、私にとっては思い出の深いものである。
Dr. Sawyerは、一日に一回は研究室に現れる。その時に、研究員達の仕事の進み具合を尋ねたり、気楽に脳定位固定装置に兎を保定する手伝いをしたりしておられた。勿論、こちらから話をすれば、すぐに聞いて下さる。実に自由で気楽な雰囲気だった。その中で研究員達はのびのびと仕事をしていた。
ハンガリーのBela HalaszともSawyer研究室で出会い、彼との共同研究も出来た25)。また、彼の作ったナイフを日本に持ち帰った。このナイフが本格的に活躍するのはずいぶん後のことである。
Dr. Sawyer の研究室では、川村浩さん(前三菱化成生命科学研究所)との出会いもあった。彼は、電気生理学の専門家であり後に哺乳類の体内時計が視交叉上核にあることを明らかにした方である。EEGの波形の分析や電極の作り方のみならず、研究に対する心構えなど多くのことを学んだ。彼は、パヴロフ「大脳半球の働きについての講義」の訳者でもある(川村浩、大脳半球の働きについて−条件反射学−岩波文庫33;#927、1975)。
脳内に局所的にatropineを投与する大羽利治君の実験26)はSawyer研究室での私の経験によるものである。
写真4 Bela Halaszと再会.この年,内分泌学会東部部会の招きで来日.わが家で(1979年) |
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ここまで書いてきて気がついた。この物語は前世紀の半ばのことである。 神経内分泌学(当時はこんな名前はなかった。神経分泌−neurosecretionに関する研究と云うのが一般的だったと思う。Scharrer夫妻の “Neuroendocrinology”13)が最初の公式な用例ではなかろうか。雑誌、Neuroendocrinology 第1巻の発行が1965年だ。International Society of Neuroendocrinology の発会は1972年。神経内分泌の国際会議は1986 年になって始めてSan Franciscoで開かれた)の開祖と考えられる人の名前を挙げた。私自身は、面識があったことは勿論、多くの人と話をしている。この頃には、視床下部の下垂体ホルモン放出ホルモンをめぐってA. V. SchallyとR. Guilleminとの熱い議論も戦わされていた時代だ。しかし、特に神経内分泌を研究対象にしていない限り、今現役でご活躍の方々にはなじみのない人々だろう。
20年ほど前、“近頃の学生はH. Selyeの名前も知らない”と或る大学の教授が嘆いていた。H. Selyeがストレス説を提出したのが1936年である。教授が嘆いた時は、ストレス説提出から50年近く経っていたことになる。私が学生の時、ホルモンと云う言葉を最初に提唱したBayliss & Starlingの名前を知っていただろうか。答えは否である。セクレチンをホルモンと呼ぶという彼らの発表は1902年だから、私の学生時代の50年弱前になる。メンデルの法則の再発見が1900年。それも遠い昔の、歴史上のこととして聞いていた。だから私はH. Selyeの名前を知らない学生を責めることは出来ない。まして私がここに名前をあげた人々は、かなり細かい専門分野に属する。知らない人が多くて当然。前世紀半ばの思い出話はこの辺で打ち切った方が良さそうだ。
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私は、ともかくこんな風にして神経内分泌学に足を踏み入れた。そして、吸乳刺激に端を発する一連の神経内分泌的協調作用−哺乳類の種族保存のための極めて合目的的現象の解明に関わった。これは、太田克明さんをはじめ、大羽利治さん、友金弘さん、その他たくさんの学生・院生諸君の助けがあって始めて出来たことである。
前多敬一郎さん、束村博子さん、大蔵聡さんたちとの楽しく、且つ充実した研究生活はこれ以後の現代史になる。読者の皆さんのよくご存知の通りである。
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ここまでは前車の轍である。駑馬も駑馬なりに何とか車を引いて轍を作ることが出来た。これも、佐々木、内藤両先生の教室、名古屋大学農学部、NIRDのDr. Folley、UCLA Brain InstituteのDr. Sawyerの研究室の極めて自由闊達な雰囲気によるところが大きい。そして、それぞれの所で多くの優れた人々との出会いがあった。車がひっくり返りそうになるとそうならないように助ける人がでてきた。温故而知新可以為師矣。論語で始まったから論語で終わろう。論語“季氏”にでてくる“益者三友”。すなわち、直(正直)、諒(信)、多聞(知識)の人々に囲まれ、恵まれた研究生活であった。感謝している。
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本音は、前車の轍など気にせず未開の荒野にどんどんそれぞれの道を切り開いていただきたいのだ。現代の若者にはそれだけの力がある。環境も整っている。今日の非常識、明日の常識の世の中。歴史はあなた方が作るのだ。若い頭脳と体力によらずに何が出来る。其の力をどのようにまとめ発揮するかである。学会の若手研究者の集まりも発足した。今後の発展に期待し注目したい。
「今時の若者」こそ期待の星である! かつて、“戦後派(アプレゲール)”といわれた世代から現代の若者へ心からのエールを送る。戦後派なんて云ってもどんな奴等だったか判って貰えないだろうけれど。(広辞苑第5版には戦後派、アプレゲール二つともに出ている。アプレゲールの項に詳しい説明が出ている。見て下さい。)
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これからは蛇足である。
最近のJRDの論文の英語は素晴らしい。半世紀前とは較べものにならない。一方、JRDやその他の学術雑誌、ジャーナルの日本語論文が分かり難い。ここで云う論文とは、原著に限らず総説や紹介記事を含めている。原因の一つにこちらの理解力の悪さもある。それを棚に上げる。今私が書いている文章が分かりやすいかどうかも棚に上げる。そしてあえて云う。
文章をわかり難くする原因のひとつに文(センテンス)の長さがあると思う。センテンスが長いと、主格と述語との対応がはっきりしない。だから一読意味を取りにくい。では、何故センテンスが長くなるのか。添削不足があるのではなかろうか。英語論文を書くときには、“よし、書くぞ”と身構える。コンマやピリオドの使い方も英作文で教えられている。さらに、英語を母国語にする人あるいはそれと同じように英語が出来る人に読んで貰うのが普通だろう。やりとりの間に、論文は添削され主格と述語との対応がはっきりする。センテンスが短くなり分かり易くなる。それに較べ、日本語論文を書く時には母国語と云う安心感もあって、英文の時とは心構えも違う。当然書いた後の見直しも英語のものよりずっと少なくなる。センテンスは長いまま残る。従って、分かり難い。
JRDに出ている日本語論文の一センテンスの字数を手当たり次第に数えてみた。論文形式あるいは総説的なものの文章は比較的短い(60〜90語)。それに較べ、施設紹介などの文は100字前後とながい。標本の取り方もいい加減で、統計的に意味がある数字ではない。しかし、この数字は上に書いた私の推測もまんざらいい加減でもないことを示す。後者の論文は、著者が気楽に書き、あまり読み直しをしない。そのためにひとつの文章が長くなり、分かり難くなったと云う憶測である。さらに悪いことに、日本語の作文法を学校できちんと教えられていない。今の教育は知らない。少なくとも、私は学校で習った記憶はない。だから、論文を書くようになってはじめて書き方を勉強した。今は、論文を書くための指導書がたくさん出版されている。手許にある指導書27-29)を見ると、センテンスを短くと云う共通項がある。どのくらいの長さなら良いのか。木下さんは28)目標を50字においている。木下さん自身もこれはなかなか厳しい目標だという。でも、分かり易い論文を書くための努力目標として挑戦する価値があると思う。ただ、本多さんは29)分かりやすさと文の長さは本質的には関係がないが、分かりやすい長い文を書くには日本語に通じている必要があるとする。やはり、普通の書き手は短い文を書くことを心がけるべきだろう。
長いことScienceの編集者だった、Elenore Butzという人の追悼文がScience 2002年2月22日号に出ていた30)。それによると、彼女は編集にあたって、余計な言葉を除くだけではなくセンテンスを短くした。そうする事によって、主語と動詞の関係をはっきりさせ、読者にとって明快な論文に仕上げたという。これは、我々が日本語の論文を書くときに他山の石とすべきことではなかろうか。
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JRDの評価が世界的にさらに高まり、繁殖生物学会会員の素晴らしい業績がこれを通じて広く世界に知られることを祈る。最後まで読んで下さったことに感謝しつつ筆を置く。
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