「温故而知新可以為師矣」

 古い事柄も新しい物事もよく知っていて初めて
人の師となるにふさわしいの意(広辞苑)

高嶺 浩先生の想い出
−子宮頸管粘液の結晶形成現象から−

笹本修司
(東京農工大学名誉教授/元日本繁殖生物学会理事長)

JRD2001年12月号(Vol. 47, No. 6)掲載


 ウシは発情期になると大量の子宮頸管粘液を分泌し、一部をスライドグラス上に塗布して乾燥するとシダの葉模様の結晶が観察され、発情期判定の補助手段として活用されていることはご承知の通りです。発情期にだけみられるこのシダ状の結晶形成現象を最初に報告されたのは高嶺 浩先生(元名誉会員、1993年2月4日逝去)と羽生 章氏で『牛の子宮頸管粘液の性状と精子受容性について』(医学と生物学 16, 203-206, 1950)であります。

 先生は昭和15年、東京農工大学農学部の前身である東京高等農林学校へ赴任なさってから、当時の馬学教室の田中良雄教授の下で乳牛の繁殖に関する研究を指向されましたが兵役のため中断、敗戦・復員後の昭和22年から研究再開にむけた準備をなさいました。そして昭和24年の夏休み、東京都青梅市にある東京都種畜場霞分場(現在の東京都種畜牧場)にて、連日ウシの子宮頸管粘液の精子受容性検査を高嶺先生の教室卒業生である羽生氏と共に実施されました。当時はようやく人工授精が軌道にのりはじめた頃で、農家はウシを連れて分場まで通い、人工授精を受けていました。

 発情期に限って子宮頸管粘液がシダの葉状の結晶形成をすることがわっかたのは丁度この時期のことです。子宮頸管粘液の精子受容性検査と共に、初めはウマのスタンプスメア法をウシに応用しようとして、頸管粘液の塗抹標本を作成し検査していたのですが、数も多かったため、頸管粘液を塗抹したスライドグラスを、開け放ったガラス窓のレ−ルの上に乗せて乾燥させたそうです。個々の頸管粘液の精子受容性検査等を済ませてから、窓のレ−ル上で乾かした何枚かのスライドグラスをそのまま無染色の状態で見ると、シダの葉状に延びた美しい結晶が観察されたのです。頸管粘液の塗抹標本をアルコ−ルランプなどを用いて急速乾燥し、染色・洗浄してから細胞像を観察の主眼とした場合には、シダの葉状の結晶形成現象は見落とされてしまいます。多数のウシが人工授精を受けに来たため個々の塗抹標本をすぐには検査できず、結果的に標本を時間をかけて風乾し、肉眼でも観察可能な位に結晶が十分に大きく成長したことが幸いであったように思います。

 さて、この見事な結晶ですが、最初は見当も付かず、結晶学に関係した本を見て、結晶の写真とよく似ているものを探したそうです。(実際にはシダの葉状の結晶が出現しているスライド標本をメチルアコ−ル溶液で固定すると結晶は消失するので、標本固定に使用したメチルアルコ−ル溶液を蒸留し、析出物質を集めて調べた結果、硝酸銀溶液に対する反応などから結晶の本体はNaClと察知された。)発情周期のどの時期の粘液であっても、それを乾燥すれば乾燥する経過中にNaCl濃度が或る特定濃度(例えば発情期の粘液中の濃度)に達することはある筈ですから、単に頸管粘液中のNaCl濃度が結晶形成現象を支配するものではなく、粘液中の固形分である粘性物質とNaClの濃度比がシダの葉状の結晶形成に関係すること、さらに精子受容性が発情期の粘液に限って良好であるのはこれらとどのように関連するのか、等々、高嶺先生はさらに10年をかけて学位論文を完成されました(牛の子宮頸管粘液の精子受容性及び結晶形成現象に関する研究)。

 『天然のステロイドホルモンが分泌物中に結晶状に析出するほど高濃度に存在することなど、常識で考えればあり得ないのに、ステロイドホルモンの結晶像などを探して見たことがあった』と、往時の子宮頸管粘液のシダ状結晶模様を初めて発見された頃の興奮した状況を、笑いながら話してくださいました。当面の研究内容が発展すればするほど先端の事象に目を奪われるのは誰しも当然の事ですが、次のスッテプを踏むまえに、心の中では一歩退き、何故その特定の事象が対象に上がって来たのか、それが解決出来れば当初の問題がどのように発展的に解明されるのか、個々の最先端の場に在っても、常に『探究心の進む方向を落ちついて考える』ことの要諦を実例としてお伝え下さったものと感じております。

 私たちの先達の先生のお考えの一端をお伝えすると共に、会員各位がそれぞれの道で、心豊かにご発展ありますよう祈念いたします。



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