TYH誕生の頃
豊田 裕 |
【JRD2001年10月号(Vol. 47, No. 5)掲載】
家畜繁殖研究会誌以来、本誌に掲載された論文の中で、世界的にも高く評価され、最も数多く引用されたと思われる論文の一つに、1971年の豊田・横山・星による「マウス卵子の体外受精に関する研究」(家畜繁殖研究会誌、16: 147-151, 1971)をあげることができます。著者らによって考案された培養液(TYH)と体外受精法は、30年後の現在も再現性の高い方法として広く利用されています。
ここでは、その論文の筆頭著者である豊田 裕先生に寄稿をお願いしました。
JRD2001年10月号(Vol. 47, No. 5)和文ページ編集担当
このたび、はからずも和文ページ編集担当の葛西先生から、私たちのマウス体外受精に関する論文(1)を再掲したいので、何かコメントを書くようにとのご依頼があった。研究者としての私は、本学会の前身である家畜繁殖研究会の中で育てられたので、このお誘いは大変ありがたく、喜んでお引き受けすることにした。なにぶん30年以上も前のことで記憶が薄れているところもあるが、いまの若い人たちに何らかのお役に立つことを願って、当時を振り返ってみたい。
マウスの体外受精との付き合いは、米国留学から帰国後間もない1968年10月に東北大学農学部から北里大学畜産学部(いまの獣医畜産学部)へ移ったときに始まる。実は、北里への異動の話は留学中に突然舞い込んできた。当時の上司だった竹内三郎先生から十和田市に新設された北里大学畜産学部に助教授として行かないかという、お話を頂戴したときは大いに迷ったが、恩師の星冬四郎先生が中心になって基礎を作っているので悪いはずはないという情報を頼りに、誰にも相談せずに行くことを決めた。あとで、帰国のご挨拶にうかがったときに「せめて一言相談してくれてもよかったのではないかなあ」と星先生は慨嘆され、私はただひたすら恐縮した。
十和田市郊外の広野の中にぽつんと建っている畜産学部に赴いたのは設立3年目で、1回生の卒論専攻を決める時期に当たっていた。すでに畜産学科には4つの講座(栄養学、飼育学、利用学、草地学)ができていて、私が担当するのは5番目の育種繁殖学講座であったが、待ち構えていたのは、既設の講座からはみ出した風情の数名の個性的な学生達であった。早速一緒に実験を始めたいと考えたが、あいにく実験室も動物室もなく、備品は皆無で、私自身の居室さえなかった。ずいぶんひどいじゃない、と事務長に談判に行ったところ、来年度には手当てするから、この半年はせいぜい講義と実習に精を出してくだいという返事だった。
実験がだめなら、せめてセミナーだけでもと思い、星先生の生理学教授室に間借りしてオースチンの体外受精に関する総説(2)を輪読することにした。学生の意向などお構いなしに決めたので、そっぽを向かれることを覚悟していたが、いざ始めてみると、悪ガキの集団と見えた学生達が意外に素直で、向学心が強く、研究熱心であることがわかった。「これは行けそうだ」と感じて、少し、楽しくなった。セミナーが始まってしばらく経った頃、一人の新しい学生が入ってきた。今まで草地学を専攻していたが、先生の了解を得たのでこちらに移りたいということだった。それが、横山峯介君だった。人生の転機とは実に不思議な縁によって生じると思う。もし、あのとき横山君が入ってこなかったら、私の体外受精研究は、おそらく違った進路を取っただろうし、彼自身も、実験動物の生殖工学ではなく草地学の分野で活躍することになったであろう。
年度が変わって小さいながらも自分の居室と実験室は持てたが、スペース、予算の両面から実験動物はマウスに絞ることに決めた。一方、学部の立地条件と学生の関心の高さから、産業動物、とくに牛を使った実験系の立ち上げが急務だったので、この難事業は新任の福田芳詔助手にお願いした。私がマウス体外受精系の立ち上げに専念できたのは、福田さんが面倒なことを一手に引き受けてくれたお陰である。
星先生は、はじめは体外受精研究に消極的で、「なんと味気のないことを始めたものよ」と嘆かれたが、それでも研究の隅々まで親切に相談に乗ってくださった。その年に(昭和44年度)、先生の文部省科研費が採択されたので、研究分担者として消耗品費を使わせていただき、大いに助かった。
実験を始めてみて、それまで拠り所としてきたチャン先生のもとでの経験(3)がきわめて限られたものでしかないことが判った。とくに難航したのが培地の開発だった。すでに、ウイッテン(WK Whitten)とブリンスター(RL Brinster)という2人のパイオニアーによってマウスの初期胚培養のための培地が発表されていたので、それらを参考にして試行錯誤を繰り返し、乳酸ナトリウムを除いて代わりに食塩を追加し、アルブミン濃度をやや高めて、さらにピルビン酸濃度も彼らの最適濃度の約4倍に高めた処方を作った。
この培地は、それまでの初期胚培地と比較して浸透圧、イオン強度およびpHがいずれもやや高めに設定されていて、これは後に精子の受精能獲得誘導に好適な条件であることがわかった。結局、卵子の最適環境から少し外れるという犠牲を払って、卵子への精子侵入を促すことを優先した処方となった。しかし、このことは一方では、精子が入り過ぎるという傾向を生み、実際に多精子受精卵が頻繁に見られた。
図中の点線および実線は、それぞれin vivoにおける交配後の精子侵入および前核形成の時間経過を示す. |
この問題点は、受精させることが先決と考えていた私には、ほとんど気にならなかったが、1970年4月に第11回哺乳動物卵子談話会で初めて発表したときに、会長の加藤浩先生から早くも痛烈な批判を受けた。「発生しないような出来損ないの受精卵を作って何の意味があるのか」という、温厚な先生には珍しいくらいの激しい口調にたじたじとなったが、「小成に甘んじるなかれ」という戒めと会得できた。すなわち、受精卵は完全な個体と同等の存在であり、正常な個体に発生して、はじめて真の受精卵といえる。先生は、多精子受精にお構いなしに受精卵を作って悦に入っている私を見て、生命を弄んでいる者に対するような一種の不快感を持たれたのではないだろうか。
真の受精卵を作ることが目標とすると、解決しなければならない課題は山ほどあることはすぐに理解できた。幸い、その年に卒業した第1回生の中から横山君が大学院に進学してくれたので、それまでのデータは一切捨てて受精成立の条件を最初から検討し直した。前年度までの試行錯誤の中で得たデータは、卵子談話会のほかに、第58回日本畜産学会大会でも発表したが、図1に示すようにばらつきの多いものだった。とくに精巣上体精子の成績に変異が大きく、十分に制御されているとは言い難かった。しかし、時々、受精開始時期が揃っていて、ほぼ100%の受精率が得られることがあり、このような条件を再現することが、さしあたりの目標となった。
午前の講義開始に間に合うように、夜明け前の薄暗いうちから準備を始めて、培地の分注から授精までの作業はすべて9時前に終わるようにした。週2回ないし3回のペースで数ヶ月に及ぶ実験の繰り返しは、ほとんど苦にならず、むしろ午後に結果を観察するのが楽しみであった。このようにして、その年の暮れにはデータが出揃った。精巣上体精子の突出した好成績は、前培養によって受精能獲得が首尾よく誘導されたためと判明し、その部分は第2報(4)として切り離して発表することにした。ただし、ここで培地に名前を付けるのを忘れたのは、うかつだった。著者の頭文字を連ねたTYHの呼称が、レフェリーからリジェクトされることなく通用するまでには、実に10年以上の歳月を要した。
以上、TYH誕生前夜とでも言うべき時期を振り返ってみたが、30年の長きにわたり、我々の論文が多くの研究者によって読まれてきたことは、うれしい限りである。果たして、手放しで喜んでよいものかどうかという不安は少し残るが、ここは素直に長寿はめでたいと割り切ろう。そこで、最後に、いま人気の「発見のためのアルゴリズム5か条」(5)にならって、いささか我田引水になるが、長寿論文のための3か条を提唱したい。
稿を終えるに当たり、すでに他界された先生方への故人の称号を省略させていただいたことをお詫びいたします。また、北里大学獣医畜産学部の福田芳詔教授には、古い資料などを調べていただき、三菱化学生命科学研究所の横山峯介 マウスゲノム工学センター長には草稿を校閲していただきました。お二人のご好意に厚く御礼申し上げます。
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